ノンキャリ公務員の日記・反省・思いつき。
要するに応用力がないということなのだけれど
もの覚えの良さ・要領の良さを、「筆」で例えるとすれば、要領の良い人は「墨汁をたっぷりと含んだ筆」である。ひとたび筆を紙に走らせれば、筆が紙に触れた部分のみならず、その周辺にまで墨が浸みわたる。この筆でA4用紙程度の紙を黒で埋め尽くすのに、濃淡は別として、さして時間はかからないだろう。


一方、要領の悪い人は「芯のとがったHBの鉛筆」である。鉛筆は、芯が紙に触れた部分しか黒くならない。何度も何度も繰り返しなぞるとしても、黒く埋めつくすには限りない回数を繰り返さなければならない。とがった鉛筆で(鉛筆を寝かせずに)A4用紙を黒くするには、いったいどのくらいの時間がかかるだろうか。


他人からは、その人が「墨汁を含んだ筆」なのか「とがったHBの鉛筆」かというはできない。その人の紙がどれくらい黒くなっているかも、短時間では知ることはできない。他人は、その人が、どれくらい手を動かしているか、紙の一部分がどの程度黒くなっているか、ということくらいしか知ることができない。


だから、「必死で手を動かしているはずのあの人の紙は、思いのほか白の部分が多いようだ」ということが、よくある。「頑張ってはいるんだけど……」という陰口を叩かれる類である。また、「皆が塗りつぶしていないようなところを必死に真っ黒にしているのだから、これは優秀だ」と思って接してみると、その一部分以外は真っ白だったということも、よくある。「良い学校出てはいるんだけどなぁ」と蔑まれる類である。さらに、「皆が当たり前のように毎日塗り返している部分が、黒くなっていない」というものである。これは、「常識が欠如した人物」と称され、忌み嫌われる。


上記のような言葉を貰わないために、鉛筆諸氏は自己研鑽を続けよう。
HBどころか2Hくらいの尖りにとがった鉛筆であるiwashiも自己研鑽を怠らない!
「日記」から「家計簿」が飛び出した日
プライベートでつけている日記のつけ方を変えた。


端的に言うと、客観的事実の記録と感情の記録を切り離したうえ、用途別に記録する場所を分けることにした。


これまでの日記は、「起床時間。出来事→それに伴って生まれた感情+思考・意見等。就寝時間」という構造だった。例示すると、「7時起床。19時退庁。上司の飲み会(駅前の○○屋)。揚げ出し豆腐ウマー。4328円散財。帰宅後、読書。(『いつまでもデブと思うなよ』)。「〜〜〜〜〜〜」(←本の感想・意見)」という具合である(「家計簿」でさえ日記に混じっていた)。


これを改め、2008年1月から、用途別にわけて記録していくことにした。「起床退庁就寝日記」、「飲み日記」、「読書日記」、「ゲーム日記」、「家計簿」等。狙いは、過去の記録の検索を容易にするところにある。いままでのように、すべてを混ぜた日記ではせっかく詳細に記録していても、どこに何がわからず「記録する」ことの目的である「将来に見る」という作業が極めて困難であったからだ。用途別に、システマティックに記録することで、検索性は大いに高まるだろう。


もちろん、これまでのような出来事と感情ごちゃ混ぜの日記も継続していきたい。用途や数値や形式にとらわれず思いのままに一日を振り返ることで、「感情」を記録していると考えるからだ。どこに分類してよいかわからない、「こうもり」的なものも引き受けることになるだろう。


そして、思考・意見等はこのブログに綴っていこうと思う。
思考や意見は、常に他人の批判を浴びる可能性があるという緊張感のもと書いた方がよい。


……「思考や意見をこのブログに書く」と言いつつ、ここは身元バレ以外の出来事記録、エッセイ、誰かに聞いて欲しい愚痴の物置き場になるんだろうなぁ(思考や意見、批判が極めて苦手なので、出来事10に対して思考意見等が1くらいしか出てこないからw)。


ちなみに、このブログの理想とするカタチはかつて桑田真澄投手がジャイアンツのHP内につけていた日記。「友へ」から始まり、つらいリハビリやなかなか勝ち星がつかない悩み、それに対する克服法などが書かれた一文は、かつて高校生だったiwashiに勇気と感動を与えた。(巨人退団以降、消滅したと思っていたんだけれど、検索してみたらブログというかたちで復活していた!これは嬉しい。書き出しは「友へ」でしたね。1/24修正)
『となり町戦争』(三崎亜記)-自治体事業としての戦争-
市役所職員経験者の三崎亜記氏が書いた小説。


この小説、設定がシュールである。
ある自治体(町)が、となり町と戦争を行うのである。それも、行政が行う「事業」として。


戦争をする二つの自治体は決していがみあい、憎しみ合っているわけではない。むしろ、両自治体は「協力して戦争事業を遂行しようという協定書」(p176)を結び、「両町職員による定期的な勉強会」(同)まで開催しているのである。


通常、わたしたちがイメージする戦争とは、政治的・宗教的・経済的な対立から発生するものではなかろうか。にもかかわらず、なぜ、協定書を結んだり、勉強会などを開いたりという手順で戦争が「遂行」されているのだろうか。我々の中に当然湧き上がるこの疑問に、戦争担当の町職員はこう答えるのである。


「私たちには条例どおりの手順を踏んで業務を遂行するしか術はないんですよ」(p46,となり町戦争係:香西)





「もし自治体に戦争をやらせたらどうなるか」という、とても強烈なif*1によって、行政の特徴を際立たせ、行政の在り方と、M・ウェーバーが言うところの「近代社会の官僚制化」について考えさせられる一冊である。


通常このテの本は、典型的な役所・公務員描写により行政のダメっぷりを描き、「やっぱり役所はダメだよねー」的なオチになるのが相場である。『県庁の星』などがそうであったように。『となり町戦争』も大きくまとめればこれらに類することになるのかもしれないが、異なる点がいくつかある。


まず、著者が市役所経験者だけあって、行政の描写が丁寧であること。
多少の誇張はあるのだろうけれど、町職員の言動や町役場事務の様子が(同じく現場の行政機関に身を置くiwashiから見て)「ああ、あるかもしれないなあ」程度の現実さを持って描写*2されている。対照的に、『県庁の星』では描写が粗かったり、リアルさに欠けたりしていた。両者とも言いたいこと(形式主義・繁文縟礼等)は同じなんだろうけれども、やはり描写は忠実・丁寧であるに越したことはない。


また、時折、主人公が行政メカニズムに対しての疑問を投げかけるが、戦争担当の町職員にまともな回答をさせている点もこの本の特徴である(たとえばpp86-88の問答)。もっとも、著者は役所擁護のために回答させているわけではないのだろうと思う。どちらかといえば「理屈の通った反論をすることで、さらに核心をつく批判を求む」的な意味が込められているのではないかとiwashiは解釈する。


以上、「描写の丁寧さ・細かさ」と「行政の言い分が書かれている点」がこの本の良かった点だろうか。


余計な御世話かもしれないけど、もうちょっと内容が推察できるようにひねれば(たとえば『町役場総務課戦争係』を副題につける等)売り上げがさらに伸びただろうに、と思った部分も。



*1:実際の戦争の意思決定とか、手続きがどのように行われてるのかがわかる本や、小説を読みたいなぁ。

*2:臨時職員として町に雇われることになった主人公へのくどいまでの説明や、住民対応のシーンなど。細かい点では、また、この本には挿絵的に様式や文書が入っているのだけれど、「業務分担表」とか「第3号様式 23と戦第68号」とか。「<となり町戦争推進に関する条例施行規則>の別表15の中で〜」というセリフなど。




間違ってたらごめなさいでいいんです

「間違ってたらごめんなさいでいいんです」(ニア@『DEATH NOTE』)



名言。

大事なのは、自分の主張が間違ってたと気づいたときに、きちんと「ごめんなさい」できるかどうかだと思う。その主張の拠り所としていた根拠が崩され、もはや間違っていることが明確になったときでも、屁理屈をこねて(ひどいときには、なんの根拠も無しに「それでも私はこう思う!」などと言って)なお自分の方が正しいと主張する人は恐ろしい。

自分の主張の根拠が崩されたら素直に誤りを認め、ごめんなさいをして、方針を転換すること。ごめんなさいすることはなんら恥ずかしいことではない。と思う。あまり何回も間違えるのはどうかと思うが、少なくとも「根拠も無いのに自分の主張を変えない人」よりかは、「主張貫くが、根拠が崩されれば誤りを認め、改善する人」の方が恥ずかしくないし、断然迷惑がかからない。

「根拠が崩されても、なお主張を貫くことがカッコイイ」「間違いを認めることは恥ずかしいこと」と思っている人こそ困りものだ。こういう人にいくら議論をしかけても時間の無駄だと思う。いくら根拠をあげても、いくら根拠を潰しても「いや、でも私はこう思う」で終わるから。きりがない。「私の理論に反証可能性はありません!」とばかりに持論を主張する。本当に困ったものだ。

「振り上げた拳の下げ時」を探しているというのも感情として理解できなくはないが、下げ時を探している間にも顧客の利益は損なわれていく……
「地雷が埋まってました、知りませんでした」では通用しない
今日、地雷が炸裂した。自分自身・会社・そしてお客様のみならず、関係のある会社までをも巻き込んだ大惨事となった。悪夢…。

もっとも、地雷は要人が踏んで炸裂したのではなく、僕自身が除去しようとしている最中に炸裂した分、まだ被害は少なかったように思う。最悪、国賠のケースもあり得たかもしれない。

地雷を埋めたのは、何代か前の前任者。
一度電話で話をする機会があり、「ここに地雷が埋まってそうなんですけど、大丈夫ですか?」と質問したことがあったが、返事は「既に削除依頼済み」とのことだったので、安心していた。しかし、どうも嫌な予感がしたので、不安になって探ってみると、「地雷発見→炸裂」という事態。

地雷が埋まってそうな場所は自分で確認しましょう。
「前任者のせいだ!」などとはユメユメ思わぬように。
書類の日付欄に思わず平成19年と記入したしまった箇所の数→
平成19年から平成20年に変わった。ついに平成も20代である。昔(平成一桁末か)、朝日新聞で堺屋太一が『平成三十年』という小説を連載しているたとき、そのタイトルを見るたびになんだか近未来的なイメージを受けたものだけど、もはや近未来などといってられない気がする。平成三十年が現実味を帯びてきた!


でも、体や心の2割ほどは平成19年が残っているらしく、書類の日付欄をかなり間違えた。平成20年とすべきところを平成19年としてしまう。ありがち。んで「間違えた、やり直しだ」と思って再び「平成19年」と書いてしまうのだからどうしようもないね。


こういう凡ミスは、避けたい。
仕事はしないが、仕事をうまくこなす人がいる-他人の力を借りる能力-
つまり、他人にうまく仕事振る人のことである。それも、忙しさや適性などを考慮し、さらに場の雰囲気をも利用して、ごく自然に他人に仕事を振る人のことである(無闇矢鱈と他人に仕事を押し付ける上司がいたりもするが、この手合いとは全くの別種!)。


他者の力をうまく借りることによって、仕事をこなしてしまう。本人が仕事をするわけではないのだが、結果的にうまく仕事を捌いていることになる。こういうのも、「仕事ができる」人に含めることができるだろう。先日のエントリで述べた、振るべき仕事も抱え込んでしまう人とは対照的である。


勉強法について多くの著書をもち、精神科医でもある和田秀樹氏は「私のいう頭のよさは、人を使ったり、人を頼ったりしながらでも、問題解決がうまくできるならそれでいいじゃないかという頭のよさである。」と述べている。注1この定義に従えば、上で書いた、仕事をうまく振る人は「頭がいい」といえる。


一方で、自分には和田秀樹氏がいうような「頭のよさ」(他人を頼る能力)が決定的に欠如している。なんでも自分でこなせるようにと物事を覚える傾向がある(できもしないのに!←タチ悪し)。その点に気をつけ改善をはかるように心がけつつ、今年も公務を頑張りたいと思う。



注1…『大人のための勉強法』(和田秀樹著・PHP新書・2000年・p64)
    なお、人を頼るといっても「全面的に頼ることを意味」せず、「自分の知識や能
    力の限界」を考慮した上で頼ることを言っているのだそうです。
プロフィール

Author:katakutiiwashi
社会人二年目。

要領(ジアタマ)はきわめて悪い。
一方で地道な作業は大好き。

定型作業は人並みにこなす自信がある。
非定形作業は……。

計画が好き。記録が好き。

要領悪いなりによりより仕事をするためにはどうすべきかという模索に役立てるため、日々の反省・思いつきなどを書いていく。

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